「並木」の由来
「並木」の名は、かつて海だったころ、漁師達がこの付近を「並木漁場」と呼んでいたことに由来します。
埋立が完了した昭和51年、当時の富岡漁業組合長だった浜田八十八氏の元に、横浜市役所の職員から「新しい土地に名前を付けるにあたって良い案はありますか?」という電話が。八十八氏は「我々が並木と呼んだ漁場だから、富岡の人間は並木と呼んでいますよ」と応じ、それが1つのきっかけになりました。決定後、浜田家へは改めて役所から報告の電話があったそうです。
翌昭和52年1月10日、並木1~3丁目の町名が正式に登録されました。
金澤写真アルバムより、1971年頃の富岡漁港。冒頭の写真はほぼ同じ位置で撮影したもの。
漁港から沖へ2300-2500m。小柴の向こう側に横須賀の鷹取山・武山が見えてくる位置が「並木漁場」とのこと(上図1)。
富岡八幡宮付近には明治時代頃まで、樹齢600年を超える松やケヤキが何本も生えており、沖からはそれが一直線に並んで見えました(上図2。木の位置はイメージ)。
この付近は昔、八幡宮付近から北東方面へ2kmほどの砂嘴(岬)が延び、松並木が続いていたと代々伝えられてきました。沖から見た木の並びがその地形と一致することもあり、漁師たちはここを「並木」と呼ぶようになったといいます。
松の大木は昭和20年代まで数本残っていましたが、最後の名残も枯れ始めて洞になり、ふくろうや青大将が巣をつくるようになったため、昭和27年に伐採されました。
言い伝えの砂嘴は、1311年(応長元年旧暦5月18日)の大津波で水没したとされています。柴~長浜付近一帯が津波に流され、松並木も消失。そこが浅瀬となったことで、魚をはぐくむ良い漁場が出来たという説も。
長浜一帯が水没したにもかかわらず八幡宮周辺は無事だったことから、富岡八幡宮は「波除八幡」とも呼ばれるように。それが現在、橋の名としても使われています。
今では海の面影はほとんどありませんが、街のいたる所に「並木」の名を感じることができます。
2丁目リハビリセンター(旧・並三小)前と、1丁目第三住宅付近の桜並木。
五月の外周道路は、銀杏の新芽にツツジの紅が鮮やか。
3丁目中央通りに並ぶクスノキ。真夏は特に青々と。
1981年(金澤写真アルバムより)と、2017年撮影。
冬になると葉を落とすプラタナス。建物の個性的な形が際立つ時期です。
参考文献
コレナミ(これからの並木をつくる会)水辺部会
「浜田清次さまに富岡の昔話をお聞きする会」(2016年7月)
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