牡蠣根公園
1980年3月25日公開。1丁目3街区の高層棟に囲まれた公園です。
公園名の由来は、埋立前の漁場名「カキ根」からと思われます。
"根"とは海底にある岩場のこと。実際に漁場付近の海底からは、埋立前に多くの牡蠣殻が搬出され、いくつも小山が出来るほどだったそう。
富岡の元漁師のお話から推定したカキ根漁場の位置
現在杉田や野島・金沢には縄文時代の貝塚が残っていますが、富岡近辺には形跡がありません。一説によると、カキ根付近もかつては陸地だったのが、1311年応長の大津波※ によって水没したのではとのこと。
縄文時代の貝層がそのまま根になったかは定かではありませんが、埋立前の根岸湾は潮が引くとはるか沖まで歩けるほど遠浅だったそうで、古来の海岸線は近代とは大きく異なっていたのかもしれません。
※柴~長浜付近一帯が水没したとされる津波(参考:「並木」の由来)
杉田小学校内に展示されている貝塚。地層の様子がそのまま保存されています。
(許可を頂いて撮影・掲載をしています。転載はご遠慮ください)
昭和35年頃までの根岸湾は海苔の養殖が主で、海を耕す機会がほとんどありませんでした。埋立のために海底を掘り起こしたところ、蓄積していた泥が攪拌され、それが良い影響になったのか翌年とり貝が爆発的に発生したのだそう。
通常貝類の採取には底引きの資格が必要でしたが、この年に限り金沢区水産課がどの漁業者にも特別に許可を出すほどだったといいます。
カキ根があった海域は、根岸湾埋立事業で「第二期・ハ地区」と呼ばれるエリア。
根岸湾埋立は1959年から施工され、石油精製や造船などの大企業が次々と進出。沿岸は京浜工業地帯の一翼を担う重工業地帯となっていきました。
その最中、イ・ロ地区造成中に就任した飛鳥田一雄市長は、以降に埋め立てるハ地区について「重工業ではなく、市街地の中小企業を誘致する」と発表。
当時横浜西口~高島町付近は住宅と工場が無秩序に混在していました。それによる公害問題解消と中心市街地の再開発・活性を目的とし、1965年以降の埋立計画は大きく変化していくことになります。
1972年、進出を希望した約270社により、ハ地区に中小企業の工業団地(金沢団地組合)が新たに誕生しました。
工場が多く並ぶ現在のハ地区(金沢団地)。
翌1973年11月、同地区に中央卸売市場南部市場が開設。
1995年には横浜ベイサイドマリーナ地区が埋め立てられ、三井アウトレットパークなどの商業施設が出来、現在は多くの人が集まる場所になっています。
アウトレット駐車場から「カキ根」の辺りを見た様子。この付近では現在、アマモ場の造成実験をしているとのこと。
かつての「カキ根」と場所は異なるものの、鳥浜の海からほど近い所に造られた牡蠣根公園。広々としたグラウンドと、その周囲に観戦用のベンチが設置されているのみの、シンプルな構成です。
公園入口には朝顔のタイル。
並木第一小学校から、横断歩道を渡ってすぐの場所。
周囲のクスノキが大きく育ち、隣に道路が通っているのをひと時忘れるような空間です。
参考文献
根岸湾埋立事業史(2012.3 根岸湾埋立事業史編集委員会 刊)
協力
横浜市立杉田小学校 若色 昌孝 校長
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