宮ノ前公園
センターシーサイドに面した公園。埋立前は富岡八幡宮から続く「宮の前海岸」で、今もこうして名前が残っています。当時の人は「みやのめー」と呼んでいたのだそう。
宮の前海岸は「海水浴発祥の地」とされ、八幡宮広場に碑が建てられています。
漁業組合記念碑の右側にひっそりと
見づらいですが「海水浴発祥 宮の前海岸跡」の文字
とは言えここで海水浴を始めたのは外国人。その内容も、海にじっと浸かる・海水を汲んで沸かしたものを浴びる…と、現代の"遊泳"とは少し趣きが異なります。
赤が埋立前の海岸線。
時は幕末、慶応年間。ある外国人が船で遊覧中に突風に遭い富岡海岸に漂着した際、海岸に建つ慶珊寺の住職が保護したことがきっかけで、彼はここで浴を楽しむようになります。
富岡は、横浜の外国人寄留者に許された遊歩規定圏内(自由に旅をして良い範囲)だったこともあり、その後保養地として知られていきます。当時は宿が無かったため、滞在先は主に寺でした。
ローマ字を作ったとされるヘボン博士が慶珊寺・宮の前海岸に初めて滞在したのは、明治9年8月。横浜で医療活動・キリスト教伝道をする傍ら、自身のリウマチ治療のために度々この地を訪れ、「江戸湾内で一番良い海は富岡」と海水浴を奨励します。
その影響で一気に外国人が増え、明治10年頃から海水浴が本格的に始まりました。
賑わいに乗じて料亭が建てられたのを機に、伊藤博文ら日本の要人も富岡を別荘地とし始めます。
慶珊寺から降りたあたりの旧海岸付近。
大正3年には地元青年会によって海水浴場がオープン。一度は関東大震災によって廃れたものの、昭和3年に再開した際の休日には大型船で1日3000人近くが訪れたそう。
しかし僅か2年で船の就航が途絶えたことに加え、東海道鉄道開業により、海水浴客は由比ヶ浜や大磯へと移行。富岡は元の静かな海に戻っていきます。
センターシーサイドからの通りに面した所にある彫刻は、志津雅美氏による「てづから(少年と鷹)」。
作者ご自身から、当時の思い出を聞かせていただきました。
ブロンズ彫像
「てづから(少年と鷹)」について
公園にはブランコ、砂場、滑り台さえあればよかった当時、それを設計するいくつかの造園設計事務所に彫刻、絵画等の修景・添景施設の設置と作品の無名性を提唱すると、この公園設計の方から「おか・陸」をテーマにしたモニュメントの制作を依頼され、それを元に「潮風」を、そして「風」を、そして「鳥」を、そしてカモメ鴎、トンビ鳶、タカ鷹、ワシ鷲の中から「鷹」を選択し、羽をひろげている鷹を「自然」に、ひざまずく少年を「人」にたとえ、自然と人の関わり、在りかたを表現することにした。
「少年と鷹」という名称は設計上便宜的に使っていたが、横浜市からこの彫刻をある出版物に掲載したいと連絡があり、彫刻の名称を聞かれ「少年と鷹」は仮称だったし物語性にとぼしかったから、「てづから」と、「この像は少年(人)が鷹を、鷹(自然)が少年を、てづから、互いを掴まえ合っているところが見どころです」と、返答した。
思えば、このような彫刻物が公園に設置されたのは、この公園が日本では初めてのケースかもしれない。
これをきっかけにというわけではなく、私は植物、虫、動物、石等の「自然」が大好きで大切に思っており、「地球も ひとつの おほしさま ヒトは客なり 客は客なりに」をモットーに今もあれやこれやと作り続けています。
(以上、原文ママ掲載致しました。
引用の際は必ず当URLを転載元として明記してください。)
志津さんのWebサイト「ギャラリーおほしさま」の旧gallery(1980)に、てづからが設置された当時の写真が掲載されています。
彫刻と遊具エリアをつなぐ小道。埋立当初は植物が無く空き地でしたが、今は緑が溢れています。
並木は藤棚を併設している公園が多く、保護者が日陰から子どもたちの遊ぶ姿を見守ることができます。
参考文献
「YOKOHAMA 都市・風景・記憶 - 都市環境と彫刻」 横浜市都市計画局開発課 1984
「金沢ところどころ 改訂版」 金沢区制50周年記念実行委員会 1998
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